本読みライフ

読書ブログをやろうと思って気づいたら迷走している。

小説が文章でなければならない理由

最近、小説はおろか、普通の本もあまり読まなくなってしまった自分がこんなことを書くのも気が引けるが、昔から思っていたことをScrapboxのブログの下書きにため込んでいたので上手く伝わるかはわからないがとにかく吐き出す。

 

映画化が基本だめな理由

結論から言うと、映像でなければならない風になってないからである。

 

つまり、これは映像でなくては表現できないね、という風になっていないからである。ただ、小説がヒットしたから、そこからストーリーだけを取り出して適当に有名俳優をキャストした、とか言うのが最悪のケースである。

 

でも、そうでなくてたまに、とういうか、かなり成功している作品もある。でも、そういう作品は大抵ここで言う原則をわざとか偶然にかして破っている。

 

例えば、原作のストーリーを全く無視して独自の映像表現を獲得しているとか、俳優の演技がとんでもなく狂ってるレベルですごいとかである。とにかく、原作はきっかけに過ぎず、監督がそれをネタに撮りたいように撮っている映画は成功するかもしれない。

 

たいていの小説論は間違っている

またこれ、そんなに読んでなくて言っているのだが、巷に溢れる小説論というのは大抵間違っている。それはなぜかというとここで言うその本質を外しているものが多いからである。

 

間違っても「小説家になろう!」みたいな本を買ってはいけない。

 

買うなら、大江健三郎の「小説の方法」とか、「高校生のための小説案内」とか、加藤典洋の「言語表現法講義」とか、平野啓一郎の「小説の読み方」「本の読み方」とかを買うべきである。

小説の本質は文章・・・アルジャーノンに花束を

アルジャーノンに花束をという小説を読んだことがあるだろうか?もしかしたら名前くらいは知っているかもしれない。

 

しかし、これが映画化されて大失敗したということを知っている人はいないかもしれない。山Pのドラマもあったか?いかにこの作品の映像化が難しいかということである。

 

それはこの作品が、小説の本質に触れており、それが文章だからだ。だから映像には決して出来ないのである。

 

残念ながらそれがどのように素晴らしいかを言うことは出来ない。壮大なネタばらしだし、ぜひ手に取って自分で確かめてほしい。

文章を読めるある種の才能がないと小説は楽しめないかもしれない

これは少し残酷な事実かも知れない。僕は小学生の1年生くらいの時にクラスで本読みチャンピオンになった。

 

これは、教科書に書いてある文章をいかに引っかからずに流暢に読めるかを競うものだった。なぜか僕は自分でも不思議だった。なんで自分はこんなにもすらすらと文章が読めてしまうのかを。

 

しかし、僕は文学少年などでは決してなかった。家族も全く読書家ではなく家にあるのはせいぜいが父所有のサラリーマン小説(と言ってしまおう)の山岡荘八の「徳川家康」くらいであった。

いやいや、父の名誉のために言っておくと実はまだ、カミュの「ペスト」とかルソーの「エミール」とか、結構マイナーな本もあったはずである。

 

が、それを幼い僕が読むわけがない。僕は早熟ではなかったのである。その、小学1年生の時の本読みチャンピオンの才能が発揮されるのは大学生になるまで待たねばならなかった。

 

小さいときに本を読ませると将来文章の才能が開花するのは嘘だと思っている。多分逆だ。もともと本を読む才能があったから大きくなって本を読むようになるのである。

 

だから、たまに本を全く読まないという人がいるがそういう人は読んでも何が面白いのか正直わからないのだと思う。識字率はあるから読めないわけではない。ただ、文章ならではの面白さが多分わからないのだと思う。(このあたり、上手く伝わっていないような気がするが論を先に進める)。

 

小説が有利なあらゆる理由、例えば想像力とかは間違っている可能性が高い

よく、小説は文字だから想像力が働いてその人によっていかようにも解釈できる、映像だとある俳優がやってしまうとその人物に固定されて想像力が制限を受けるのでだめだ、という論があるが間違っているのではないか。

 

「想像力」と言う言葉の意味を我々は本当のところはまだよくわかっていないのではないかと思うことがある。

 

英語で言うとイマジネーションだからイメージ(映像)に関係があるのかなと思いがちだがそれは違うのではないかと上で述べたばかりだ。

 

実は僕もよくはわかっていない。だけど直感でそれは違うとアラームが鳴っているのである。多分想像力というのは、一つ上で書いた「文章を読む才能」に大きく係わっている何かであり、決して映像化ということではない。

 

本質、それでなければいけないものがある

絵には絵の、漫画には漫画の、音楽には音楽の、映像には映像の、本質、それでなければいけないものがある。

 

ここまでつらつらと駄文を連ねてきたが結局言いたかったことはこれだけなのである。

 

シャガールの絵を文章に出来るだろうか?または宇多田ヒカルの音楽を映像に?

 

それぞれある分野で本質を最高に掴んでいる作品が優れた作品である。

 

異化された文章、あるいは詩のような文章の小説が書きたいし読みたい

ここは本来は読書ブログなので最後は僕の理想の小説像を紹介して締めたい。

 

先の大江健三郎の「小説の方法」にバフチンだったか誰かの「異化」と言う概念が出てきた。ウィキペディアから引用する。

 

異化(いか、 ロシア語: остранение, ostranenie[1])は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。知覚の「自動化」を避けるためのものである。ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーによって概念化された。

 

純文学などを読んでいて、普通の文章ではない、ちょっとおかしな文章に接したことはないだろうか?まぁ、有り体に言えばそれが異化された文章である。

 

異化にも様々なレベルがあるだろうが僕は最近ハマってる音楽があって、ちゃんみなの「Never Grow Up」と言う曲なのだがそのサビの部分に

 

狂わせた時計と壊れたコンパスが
私たちを大人にさせない
繰り返してる最後のキス あぁ
まだここにいる we never never grow up

 

と言う歌詞があるがここの特に「狂わせた時計と壊れたコンパスが私たちを大人にさせない」なんていう所は秀逸な異化の例である。

 

これだけでもうこの歌は「勝っている」のである。

 

Never Grow Up

Never Grow Up

  • ちゃんみな
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

そんな異化に満ち溢れた詩のような小説をいつか書きたいと思っている。